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2023(令和5)年度
@ A B C D E F GHI
@10千日回向開始 、現在・C1
1・7/27〜 7/18 2・7/17〜7/ 8
3・7/ 7〜 6/28 4・6/27〜6/18
5・ 6/17〜 6/ 8 6・6/ 7〜5/29
7・ 5/28〜 5/19 8・5/18〜5/9
9・5/ 8〜 4/29 10・4/28〜 4/19
≫6/11/23(日)はじめまして355です。
コロナ禍前のように妻はコーラス、私は丸亀で昼食という3年前の定番日課が戻った。日本はもともとの大陸から離れていたのでユーラシア大陸の今から600年前から始まった強国同士の覇権主義の争奪戦にも巻き込まれず江戸時代よりその当時の有知識者(主に僧侶)を中心に知的好奇心を世代を超えて師弟に伝える寺小屋教育が盛んで明治になって学制が整い太平洋戦争はじまる頃には読み書き算盤を中心にほぼ98%の識字率に達し、そのころ識字率30%
の核を含む軍事力と情報処理力と経済力に勝るアメリカとの対戦で敗北し、戦後日本にGHQ(占領軍)、天皇、官僚、政府、教育委員会、組合活動というこれまでにない縦社会(ヒエラルヒー)をつくり今日に至っている。私が現場を去る頃は組合の組織率82%で教育委員会へ拮抗する勢力があったのだが、去ってからますます職場内での上位への忖度が激しくなり、その中でも狭小教科の派遣化や主任制度、教員資格更新制度などの強化がすすめられ、日本経済を追い詰め、身近な怒りを日本復活の起爆剤の一つとしてなら武道も認めるという文化を創り上げようとした。その意図が今回の広島サミットで明るみになった。そこでもう一度原点に立ち戻ろうという動きはすでに私が去ったすぐ後同じ美術教師の後輩から“どてら教育”として開始されたらしいが詳しくはわからない。地方各地で繰り広げられた寺小屋教育の中でも本格的だったのが閑谷学校で現在は岡山大学教育学部である。オマージュとして紹介しておこう。
≫6/10/23(土)はじめまして354です。
管理側からすれば高度情報化の社会的要請もあり革新的利益追求のため現場での数値による序列化という勤務評定が初めて導入され始めたのが今から30年前、その時団塊の世代の多くが早期退職し自ら苦難の道を選んでいった。そこから数年後逆に定年延長、賃金低減と国家財務に振り回される時代が続いた。その頃現場ではお互いが疑心暗鬼を募らせ、ふつうに日常的にご近所同士あるいは職場でのあいさつは人間関係を保つ一丁目一番の慣習ですら危ぶまれる様になっていった。武道では“礼に始まり礼に終わる”が基本だが、これがきちんとできていなければ、まさに殺し合い、すなわち戦争になっても仕方がない。もちろん礼が形だけをまねればいいというのでもない。礼がなくとも通じ合えることもあるが、あえて形を示すことで付随的にこころが入れられることもある。なにか様々な職場で例え異なる仕事をしていても、仕事始め、終わりにあいさつするぐらいはこころがけて置くべきだと思う。人に言われてするべきものでもない。しかしもっとも忌避すべきことはあいさつを相手を見てしたりしなかったりすることは現に慎むことである。
≫6/9/23(金)はじめまして353です。
職場での賞味期限切れの一番誰もが嫌う判定が管理職画になっている。折しも退職時、私は3年の最後の作品に生徒個人個人の心の中の心象風景を透視図法による点描画で描き、さらにそれにその頃新聞の折り込みチラシ全盛であったので、それを単にごみとして捨てるのでなく額縁にリサイクルし自らの作品の見栄えをよくするというかなりハードルの高い課題に取り組ませたことがある。今から振り返って考えて見るとその頃の自分がすでに見られ終わったチラシであり、でき映えもいままで他校で取り組んだ課題と比べ、もう一つであったことがわかる。様々な学校をまわってきたが、30年も前赴任した頃の学校に最後に戻されて初めてわかったことは、建物だけでなくそれぞれのそれぞれの学校毎にその地域に根を張り、職員が変わっても簡単には変化しないということだ。だからそこに長くいればいるほどそこがベストにしなければという使命観が生れて当然だ。私のような流浪の民はどこにあっても重宝がられたとしても、所詮周辺人だ。それを端的に表したものが最後に課題にした点描画であった。いわゆる不易と流行である。50歳ぐらいで人生の後半はこれにかけようと不易すなわち美術、そして流行が額縁のチラシ、情報化の帰結としてのユビキタスに向かうITという全くそう反する分野の研究のための大学院へと足を踏み出す許可(合格)が得られたことを報告したら祝福どころか「評価の悪かったのをごまかす為に受験したんだろう。」と差別を拡散させる様な発言。いまでもストレスの根源として自分の中のトラウマとなっている。今でもなぜそういう考え方になったのか、またなぜそうした考えを受け入れられなかったかを今でも考えている。